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2007年06月21日

健全なる精神は健全なる肉体に宿る

らき☆すた 第11話 「いろんな聖夜の過ごし方」
制作:京都アニメーション 原作:美水かがみ



こなたさんが、言っている、「健全な精神は健全な肉体に宿る」という考察は、西暦1世紀頃の Juvenalis (ユウェナリス)の格言です。と豆知識でも書こうかと思って、念のために、Google などで検索してみると、

「健全な精神は健全な肉体に宿る」という格言は誤りである。

というようなページがたくさんありました。その代表的な例が次のような説です。

 「健全なる精神は、健全なる身体に宿る」
 これはローマの詩人ユベナリスの言葉を翻訳したものであることは誰もが知るところであるが、詩人ユベナリスの本来の意味は、実は、
 「我は欲す、健康なる精神を健康なる身体に」
という願いの言葉だったのである。
だから、体を健康にしさえすれば、心も健康になるという意味ではない。
 健康な精神を得るためには、健康な体がなければならないし、健康な体のためには、健康な精神が必要であるということで、つまりは体と心がともに健康であることこそが、本当の健康といえるわけである。ユベナリスの詩の言っている意味はそういうことなのである。
長谷川正徳

「健全なる精神は健全なる身体に宿る」ということばはよく知られていますが、原典を調べてみると、ローマの詩人ユヴェナリス(西暦50年頃〜130年)による、「健康な身体に健全な精神を宿らせ給え」という祈りのことばであったようです。からだが健全だからといって、そう簡単に健全な精神がついてくるわけではないのです。健全な精神はやはり得がたい。けれど、肝心なのはからだより健やかな精神、あるいは魂というのが本来の意味です。
日野原重明

“mens sana in corpore sano ”は普通、
“健全なる精神は健全なる身体に宿る”と訳されるが、本来の意味は
“健全なる精神は健全なる身体に宿れよかし”ということである。
 頑健な身体の持ち主がすべて健全な精神の持ち主というわけではないし、虚弱な身体の人で健全な精神の持ち主であることも少なくないのである。
 中央出版社刊 現代精神衛生学ノート 村田忠良著

というようなものです。三氏ともにその主張は微妙に違っているのですが、三氏ともに共通しているのは、

「健全なる精神は健全なる身体に宿る」の本来の意味は、「健康な身体と健康な精神があったらいいのにな!」というような願望や祈願であった。

ということのようです。では、実際はどうなのか? といいますと、まあ、当たっているようで当たっていない。というような感じだと思います。

元々の詩の内容は三氏がおっしゃられるように、

orandum est, ut sit mens sana in corpore sano.
健全な精神が健全な肉体にあるように祈られるべきである。

というものだったのですが、格言として採用されているのは、前半の部分がカットされた次の部分です。

mens sana in corpore sano.
健全な肉体に健全な精神。

実は前半の部分がカットされたので、残った部分は、仮定や動詞のない、名詞と形容詞と前置詞だけの不完全な文となっています。そしてこの英訳が、

A sound mind in a sound body.
健全な肉体に健全な精神。

というように、英文でも主語も動詞もない不完全な文章の格言になっています。

日本にこの格言が入って来たのは明治期と考えられ、それは当然、「mens sana in corpore sano.」という格言であり、しかも日本に伝わったのは、どうやら英訳文だったようです。

A sound mind in a sound body.
を翻訳する場合、「健全な肉体に健全な精神」では、文になっておらず、スローガンのようなものも見えてきません。そこで工夫して、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」と格言らしく訳したのだと思います。原文には主語も動詞もないのですから、これは許容できる範囲の訳だと思います。

しかし一旦、「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という格言が出来上がると、この言葉そのものに意味が生じ、

健全な肉体であってこそ、健全な精神が宿る。

というような、意味に解されることになります。一般にこういう変化は、「転化」あるいは、「変容」というもので、世にある格言や諺には、これと同じように、原典の内容から大きく変化したものが無数にあるのではないでしょうか。

ところが、この「健全なる精神には・・・・」という格言はどういうわけか、非難されることが多いようで、最近では、言葉狩りに近い状態になっているようです。その急先鋒が、スポーツライターの玉木正之氏です。

かつて、「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉がありまして、これをまだ、この中にも信じておられる方がおられると思うのですが、これは実は、誤訳なのです。ローマ帝国時代の当時のコロセウムで、ライオンと戦ったり、スポーツのように剣と楯で戦ったりしてヒーローになることが流行して、ユベナーリスという詩人が、「そんなに体ばかり鍛えていても駄目だよ」と若者達に言ったのです。「健全な体があるならば、健全な心も作りなさい。健全な心は健全な体だけでは出来ませんよ」というふうに言ったはずだったのが、日本語になった時に何故か「健全な精神は健全な肉体に宿る」というふうに間違って日本語に翻訳されてしまった。

だから、それが信じられているので新聞にも大きく出て、ときどきビックリするのですけれども。もしも健全な心が健全な体にしか宿らないものならばそれは身体障害者の方だとか、いろいろ病気を持っておられる方に非常にひどい言い方だと僕は思うのです。思うのだけど、普通、そうはなかなか思えない。ふっと「健全な精神は健全な肉体に宿る、おまえ、体は鍛えておけよ」と言いたくなってしまう。そのギャップを埋める新しい考えというものがこれから求められている。
平成9年度第2回研修大会記念講演 玉木正之


後半は、こなたさんもびっくりという論理展開になっていますが、こういうときは、かがみさんに一言、お言葉をいただきましょう。


かがみさんが、おっしゃる通り、「すべてが格言通りではない」のです。一つの格言があらゆる局面で有効に使えるならば、世の中にこんなにたくさんの格言は生まれてこないのです。

それにしても玉木氏の、
もしも健全な心が健全な体にしか宿らないものならばそれは身体障害者の方だとか、いろいろ病気を持っておられる方に非常にひどい言い方だと僕は思うのです。

というような発言は、揚げ足取りと言うしかありません。たとえば、この格言とは逆に

健全なる精神は健全なる肉体を作る

と言ったとしたらどうでしょうか? これだって、玉木氏の論理からすると、健全な精神がないから、健全な肉体が作れないのだ。ということで障害者の方に非常にひどい言い方ということになってしまいます。結局これを突き詰めれば、肉体と肉体以外の美徳を関連づけた言葉は、すべて障害者の方への差別となってしまうのです。

そもそも、「健全な肉体」というのは、健常者の肉体を指しているわけではありません。身体に障害のある方でも、その障害に応じて鍛えられた身体は、健全な肉体と言えると思いますし、健常者であっても、摂生を怠った贅肉だらけの身体は、健全な肉体とは言えません。ですから、この格言をきちんと理解できる知性を持っている人に対してならば、それが身体に障害のある人に対してであろうとも、

健全なる精神は健全なる肉体に宿る

という格言は十分に伝わるものだと思います。もちろんそれは、相手とその状況を十分に考慮してから用いなければならないのは当然のことですが。

話は変わりますが、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という格言が、古典の研究者からも、あまりよく思われていないのは確かなようです。たとえば、柳沼重剛氏はこの諺について次のように書いています。

下手な読み方をするとこれは、「身体を健全に保っておきさえすれば、精神なんていうものはおのずと健康になるものだ」と読めることになって、これは明らかにおかしい。
ギリシア・ローマ名言集 柳沼重剛編 岩波文庫

原典研究者からすると、原典から格言が乖離してしまうことが許せないのかもしれません。しかし、先にも言いましたように、諺や格言というのは、原典から抜き出された「フレーズ」が独り歩きしてしまうことはよくあることなのです。

そこで、欧米では、A sound mind in a sound body. という格言が実際はどのような意味で使われているのか少し見てみたいと思います。

もっとも有名なのは、17世紀のイギリスのロックという哲学者の次の格言です。

A sound mind in a sound body, is a short but full description of a happy state in the world.
(John Locke)
「健全な身体に健全な精神」という格言は、短い言葉ではあるが、世界の幸福について十分に説明している。

A sound mind in a sound body というのは、ユウェナリスの mens sana in corpore sano. のことであることは間違いないと思います。この文脈からすると、A sound mind in a sound body は、単に、「健全な身体に健全な精神」と言うだけで、「健全な肉体であってこそ、健全な精神が宿る。」というような意味合いはまったく見られません。

次に、19世紀のBrewer のことわざ辞典です。

Greek Life.
A sound mind in a sound body. "Mens sana in corpore sano."
"This healthy life, which was the Greek life, came from keeping the body in good tune."?
Daily Telegraph.
Dictionary of Phrase and Fable. 1898

ギリシアの生活
A sound mind in a sound body. "Mens sana in corpore sano."
ギリシアの生活と呼ばれた、この健康的な生活は、身体を健全に保つことにあった。(デイリー・テレグラフ)

この辞典では、まさに「身体を健全に保っておきさえすればよい」という意味になっています。もしかすると、日本の「健全な肉体であってこそ、健全な精神が宿る。」というような解釈も、翻訳の際の変容ではなく、これと似たような辞典から翻訳されたに過ぎないのかもしれません。といいますか、実際にそうなのだと思います。
(詳しくはわからないのですが、ギリシアの生活というのは、どうやらギリシアの七賢人の一人のタレスに関連付けられているようです)

更に、Mens sana in corpore sano を、Wikipedia で見てみると、その解説に次のようにありました。

The original connotation of the phrase is that health of mind and body is good in itself and something to be rightly desired, as opposed to beauty, wealth, or power. Over time and separated from its context, the phrase has come to have a range of meanings. It can be construed to mean that only a healthy body can produce or sustain a healthy mind.

この格言の本来の意味は、「然るべき何かを望むならば、美しさや富や力ではなく、心と身体の健康を望むのがよい。」というものであったが、時代が下がり、この格言がその文脈から切り離されると、意味するところの範疇が定められ、「健康な身体だけが健康な精神を生み出し育むことが出来る」と解釈されるようになった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mens_sana_in_corpore_sano

例によって、長いこと引っ張って来たわけですが、結局、「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という格言は誤訳でもなんでもなかったということになりますね。(^^)

では、なぜこのような批判がされるようになったのか考えてみたいと思います。その前に、この格言が日本ではどのように紹介されてきたか、少しだけ見てみたいと思います。

大日本国語辞典 冨山房 大正四年初版 1915年
(諺)健全なる精神は健全なる身体に宿る
身体の壮健な人にして初めて穏健なる思想を懐くを得。


大正の初めに出版された国語辞典です。既にこの格言が「諺」として載っています。また、その解釈も確立されています。

広辞苑 第二版 昭和四十四年  1969年
健全なる精神は健全なる身体に宿る
(mens sana in corpore sano ラテン)(ローマの諺から)
精神と身体との間には密接な関係があり、身体が強健なら自然に精神も健全である。


広辞苑の第二版では、出典語句が示されています。

広辞苑 第四版 
健全なる精神は健全なる身体に宿る
(mens sana in corpore sano ラテン)
(ローマの詩人ユウェナリスの「諷刺詩集」から) 身体が強健であってこそ精神も健全である。詩の本来の意味は「健康な身体に宿る健康な精神を」というもの。


広辞苑の第四版では、出典が詳しくなり、詩の本来の意味というのも載っているのですが、この「本来の意味」の意味がよく分かりません。特に、「健康な身体に宿る健康な精神を」の最後の「を」は、なにを意味しているのでしょうか? しかし次の日本大百科事典を見ると、この「を」の意味の想像がつきます。

日本大百科事典 小学館
ユウェナリス
Decimus Junius Juvenalis(60ころ―128ころ)古代ローマ最高の風刺詩人。
・・・・・
人間の願いのむなしさをわらい、「健康な身体に健康な心を」宿らせ給えと願うことを勧める第十歌が名高い。

(ちなみに、昭和39年初版には、ユウェナリスの項目にはこの格言は載っていません。)


日本大百科事典では、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という格言は、完全に無視されているわけですが・・・この記述と広辞苑の本来の意味の記述を比べると、「を」が何をさしているかがわかります。

広辞苑の編集者も

「健康な身体に宿る健康な精神を」宿らせ給えと願うこと

というような、「orandum est, ut sit mens sana in corpore sano.」の訳を書きたかったのだと思います。しかしそうすると、原文として記述している、「mens sana in corpore sano」はどうなってしまうのか? ということになり、「を」から先の願望の部分は、書くことができなかったのかもしれません。

大辞林 第二版 (三省堂)
健全なる精神は健全なる身体に宿る
〔ローマの詩人ユベナリスの詩句に基づく〕精神と身体は互いに関係があり、身体が健全ならば、精神も健全である。〔原詩の中での意味は「人は神に、健全な身体に宿った健全な精神を与えられるように祈るべきだ」である〕


大辞林では、広辞苑が入れたかったと思われる説明が入っています。大辞林では、格言の原文である、
「mens sana in corpore sano」を記述していないので、
「orandum est, ut sit mens sana in corpore sano.」をためらわずに紹介できたのかもしれません。

大日本百科事典では無視されていますが、それ以外では、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」は、特に誤訳とか誤用とは書かれていません。まあ、実際に誤訳でも誤用でもないのですから当然のことです。

ここからは完全な推測なんですが、この格言が嫌われた最大の原因は、笹川良一が、生前この格言を日本船舶振興会コマーシャルでとなえていたからではないでしょうか?(^^) 
次は、「健全なる精神は・・」のバージョンではないのですが、雰囲気は伝わると思います。



まといを振っているのが、指揮者の故 山本直純氏で、大太鼓を叩いているのが、高見山親方です。そして、拍子木を叩いているのが、右翼の大ボスと言われた、故 笹川良一氏です。ナレーターは、中村正氏のようですね。



坊主憎けりゃ袈裟まで・・・という諺がありますが、笹川良一憎けりゃ格言まで憎し・・・というような、そんな感じがあったのではないでしょうか? それに、この格言は、伝統的な体育会系の香りがそこはかとなくしてきます。そういうのが嫌いな文化人は大勢いるわけで・・・そこで、この格言は「間違い」ということにしてしまったのではないかと思うのですがどうでしょうか?

健全な精神は健全な肉体に宿る
という格言が日本で生まれて、100年以上になるのですが、現在この格言は、広辞苑をはじめ、大抵の辞書に載っています。つまりこの格言は世間一般に根付いているわけです。にもかかわらず、この格言を使う者を、無知であるかのように蔑み、格言を語る文脈ではなく、この格言そのものが誤りであると非難する知識人がかなりいるわけですが・・・
(最初にあげた三氏のことではないです。念のため)

格言を使うのに、一般的な辞書に書かれていること以上の、原典の知識が必要なのでしょうか? あらゆる格言を使う前に、原典と照合することなど、普通はしないと思います。

ところで、格言の使い方には、大きく分けると、「奨励」・「批判」・「スローガン」の三つの用法があります。

まず、奨励的な格言の使い方を見てみます。たとえば、運動会の挨拶などで、校長先生が、
「健全なる精神は健全なる肉体に宿ると言いますから、皆さんも一生懸命頑張ってください・・・・」
などと挨拶をするような場合があります。この場合、この格言は、今から運動をする子供たちに対して、「運動をすることは素晴らしいことだ」ということを説明するための比喩として用いられているに過ぎません。ですから、この場合、「この運動会で健全な精神が育まれる」などということは、ほとんど考えられていません。また、今から健全な肉体を作ろうとしている人たちを対象にしているわけですから、差別的な要素もまったくありません。

次に格言の批判的な使い方です。たとえば、部屋でごろごろしている子供に対して、
「健全なる精神は健全なる肉体に宿るんだよ。家にばかりいないで、外で運動でもしてきなさい」
というような使い方です。この場合も主眼は、子供に運動をさせることです。しかしこの場合この格言を使う人が、「家でごろごろしていることは精神衛生上よくない」と考えている場合は、外で運動させることで、精神も健全になると考えているかもしれません。

一般的に格言は、この「奨励」と「批判」の二通りの使われ方がほとんどなのですが、稀にスローガンとして用いられることがあります。
例えば、先の笹川良一の日本船舶振興会のコマーシャルなどで、標語として使われる場合です。

この場合は、その格言自体の意味そのものをメッセージとして送ることになります。本来格言が批判されるべきは、このスローガンとして用いられる場合のみなのですが、三つの使い方がごちゃまぜにされて批判されてしまうことが多いようです。

では、「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」というスローガンに対する批判は正当かどうか見てみたいと思います。

まず、らき☆すたの泉こなたさんや、スポーツライターの玉木正之氏の論理による、
「身体の弱い人や、身体に障害のある人にとっては、ひどい格言ではないのか?」
というような批判があると思いますが、これは先にも言いましたように、批判というよりも、揚げ足取りのようなものです。大抵の格言は、読み方によって、どうにでも読めてしまいますので、このような批判は批判とはみなせません。

では、もう一つの
「身体を健康にしさえすれば、心も健康になる。というような考え方はおかしいのではないか?」
というような批判ですが、この批判を考える前に、この格言が、辞書などではどのように定義されているか、もう一度見直したいと思います。

この格言には、大きく分けると、次の二つの解釈があります。

解釈1
身体が強健であってこそ精神も健全である。

解釈2
精神と身体は互いに関係があり、身体が健全ならば、精神も健全である。

両者の解釈は、まったく違っています。では、どちらの解釈が正しいのでしょうか?
広辞苑では、第二版では、解釈2であったのが、第四版では、解釈1に変更されていますので、解釈1の方が正しいのでしょうか?

今からちょうど100年前に出版された、次の本にその答えと思える箇所があります。

女子補習子女教育法 斎藤鹿三郎編 同文館 1906

三 健康なる身体には健全なる精神が宿るものである

 人の幸不幸は多くは自から作る所のものである。命あっての物種(ものだね)と云う諺があるが、身体が丈夫でなければ何事も出来ぬ、善いと思う事でも為したいと思う事でも出来ぬものである。

 身体が健康であると其の中に宿る精神も健全なるものである。確かなるものである。それが証拠にはからだの工合(ぐあい)の善い時は、元気があって種々の仕事を為さんと思う様になってくるものである。

 身体と精神とが健全であればこれ程幸福なることはない。我々は自分の身体を丈夫にし知徳を磨くと共に、子供のからだをも丈夫にし、且つ知徳を与へ、以って役に立つ人物を作ることに骨を折らねばならぬ。
 つまり身体の孱弱(せんじゃく)なるものは男でも女でも役に立たぬことは明である。


先に、解釈1と解釈2は全く違っていると書いたのですが、この文を基に解釈すれば、両者は同じ意味であることに気づきます。

解釈1、解釈2ともに、

身体が丈夫でなければ何事も出来ぬ・・・

ということを前提に、

からだの工合の善い時は、元気があって種々の仕事を為さんと思う様になってくるものである。

という風に理解できるのです。更に、

身体と精神とが健全であればこれ程幸福なることはない。

とまで解釈できればパーフェクトだと思います。

先の、「身体を健康にしさえすれば、心も健康になる。というような考え方はおかしいのではないか?」というような批判は、解釈2の

精神と身体は互いに関係があり、身体が健全ならば、精神も健全である。

の前半部分を削除して、

身体が健全ならば、精神も健全である。

として、そしてここから、

身体を健全にしさえすれば、心も健康になる。

と解釈しているわけですが、今まで見てきたように、このような解釈は歪曲された解釈としか言いようがありません。

それに実際問題として、このような解釈はありえないのです。
例えば、この格言を使った次のようなスピーチは可能でしょうか?

「健全な精神は健全な肉体に宿るといいますから、皆さんは、運動さえしていればよいのです。」

このようなスピーチは、常識的にありえないのです。
つまり、この格言を批判している人は、格言そのものを歪曲して解釈しておきながら、格言の原典の解釈を持ち出して、この格言を批判するという、まさにダブルスタンダードな、批判をしているわけです。
(原典の解釈というのも、実は当たっているかどうかは疑わしいものです)

2007/07/03
続きがあります。また後ほど。
posted by ranma at 08:10 | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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